今回は「文芸評論」になってしまいました…テーマは「癒しの本質」です
(中沢)親鸞の話ですが、日本の仏教が親鸞までいくと、結局、日本人が、それこそ縄文時代から持っている自然感覚とか、人間についての思いとか、そういう場所に着地していくんですね。「癒し」ということで言ってはいけないかもしれない...
(中沢)親鸞の話ですが、日本の仏教が親鸞までいくと、結局、日本人が、それこそ縄文時代から持っている自然感覚とか、人間についての思いとか、そういう場所に着地していくんですね。「癒し」ということで言ってはいけないかもしれない...
(中沢)いまの子どもたちは一種のプチグノーシスをやっているんだと思います(笑)。「この世界、違うんです。こんなのいやなんです」と言っているわけですから。(河合)そうです。いや、ほんまそうですよ。(中沢)これを生み出してい...
(中沢)おそらく、ハイデッガーの哲学は、東洋へもってくると、密教と同じようなことを言っているという認識になると思うんです。神秘に関わることを「在る」と表現しているだけで、「私」はその「在る」の中心部にいる。彼は踏み込む、...
(中沢)そうですね。まわりをドーナツ状に、一種の比喩です。(河合)そう、そう。(中沢)すべて比喩で回転しつづけているけれども、その中心部には言葉の能力でもっては踏み込めない部分があるということなんでしょうね。(河合)おそ...
(中沢)…… 密教だけではなくて、『般若経』でも「言語不能、言葉で言うことは不能、だけどこれは確実に、肯定的に、ある」と言われます。すると『般若経』というのは微妙なんですね。文言では全部「否定」しているにもかかわらず、最...
(河合)仏教の場合、まさにブッダは「これでもない、これでもない」と行きますよね。その「これでもない」をつづけていったところで、「これだ」というものを言っていることになるんですか、言ってないんですか。(中沢)ブッダ自身につ...
(河合)そうです。だからユングは、晩年になるほどその点をわりあい理論的にはっきり分けていて「元型そのものは絶対わからない」ということを何べんも言っています。何か自分を超えたもので、それが「意識のなかで意識化されてくると、...
(中沢)「阿弥陀如来」と言ってしまってもいいし、言わなくてもいい。「グレートマザー」でも、「自然」でもいいけれども、そう言ってしまってもいいし、言わなくてもいいわけですね。ただ何かさっき言った「絶対肯定」……。 河合隼雄...
(中沢)いつも不安でいるということは、言ってみれば神経レベルが高いところで張り詰めている状態にあるわけですね。そういうなかから「朝食はバナナ」というのがぽーんと出てくるのかな。(河合)あり得ることです。めったにありません...
(河合)もっと徹底した言い方すると、問題に深い浅いはないわけですね。だから、「水飲みましょうか」と言うたって、えらい問題ですよ。言いようによったら。「まあ、水でも飲みましょうか」と言っているのだって、完全に禅問答になり得...
(中沢)先生がやっていることと、仏教が哲学やら社会相手にやっていることは非常によく似ているんですよ。「じゃブッダさん、『空』とは何ですか」と聞かれたようなものでしょう。(河合)そう、そう。(中沢)その場合、ブッダは黙って...
(中沢)…… 仏教というのは「否定」を原動力にして進む運動なんですね。ただ、一方で日本で発達した仏教のようなケースを考えてみると、根本においては「否定」の塊を抱えているんですけど、これを表現するときに親鸞の「自然法爾(じ...
(中沢)こういう話から始まったのは、哲学から心理学から社会に対する対応にまで、ありとあらゆるところで「否定」がつきまとっているからなんです。仏教という宗教についても「否定」がありとあらゆるところでつきまとうわけですね。(...
(中沢)たとえば先生が言ったことに対して、クライアントが「違うんです」と反対したときは、どうされるんですか。別のほうから攻めるんですか。(河合)僕はね、自分の意見を言うということはめったにないです。(中略)それと「あなた...
(中沢)…… とりわけ「否定」の問題が現代の社会のなかでヴィヴィッドにあらわれてくるのは、先生が関わっている心のケアの問題です。フロイトも「否定」という有名な論文を1925年に書いていますが、精神分析にとって「否定と出会...