『風姿花伝』の「序破急」、そして井筒俊彦さんの「構造」を思考してみる
たしかにそういう面もないではありませんが、しかし最初の経験的世界と今度の経験的世界の間には、外面的には同じ一つの分節の世界でありながら、その内面的構造において根本的な相違があるのです。ということは実は、同じ意味分節の世界...
たしかにそういう面もないではありませんが、しかし最初の経験的世界と今度の経験的世界の間には、外面的には同じ一つの分節の世界でありながら、その内面的構造において根本的な相違があるのです。ということは実は、同じ意味分節の世界...
しかしながら、この「無名」の境地が禅の究極とするところではないことにもまた注意する必要があります。もしこれが究極の境地であるなら、一度言語分節の存在的次元を超え出てしまったら、もう言語など、なんの用もない、無用の長物とい...
いわゆる「本質」なるものによって造り出されていた事物相互の境界線は取り除かれ、いろいろな事物の輪郭はぼやけてきます。そして、今ではほとんど区別し難くなったものたちが相互に浸透し合い、とうとう最後には全く一つに帰してしまい...
座禅の経験のおありの方はどなたも御承知でしょうが、座禅で観想状態が深まって参りますと、意識の深層が次第に活発に働き出します。そしてそれと同時に凝結していた世界がだんだん溶けていきます。いわば流動的になっていきます。今まで...
禅は、今申しました言語の人間的意識に対する影響力を徹底して否定的に見ることから始めます。すなわち、言語の意味分節の枠組を通して見られた世界は、「現実」の完全な歪曲以外の何ものでもないと考えるのです。そして禅は、言うまでも...
ところで「山」が「非山」として体験される、つまりもっと平たく言えば、山が山でなくなるためには、それを見る主体の意識も主体の意識であることをやめるほかありません。山もそれを意識する主体もなく、ただ「非山」になってしまう、と...
人間は喋っているうちに意識しないで、習慣の力で、つい自分の喋る言語の意味的枠組みに従ってものを見、ものを考えるようになっていく。禅から見れば、人間はこの意味で言葉の奴隷です。自由に、なまの、無制約の「現実」に触れることな...
……「対話を超えて」とか「対話の向こう側」とかいうこと、つまり人間本性に内在する対話への性向を超克することを意味します。世にいわゆる禅的沈黙がそれであります。沈黙は対話への性向を超えて、言葉をだんだん少なくしていって最後...
こうして対話の可能性……異文化間の対話であれ、同一文化圏内での、あるいは同一言語内の対話であれ……は、たんに理論的に興味ある問題であるばかりでなく、いやそれにもまして、今日の世界に生きる我々の存在そのものに関わる重大な問...
現在、言語的コミュニケーションの可能性・不可能性の問題は、特に異文化間の対話、すなわち文化伝統を異にする対話者の間の言語的コミュニケーションの問題として異常な先鋭度を以って起こってきております。実際、いかなる文化も他の諸...
(中沢)そうしたときに、自分はまず何をおいても仏教だと思ったのです。では、沈潜先はどこからにするか、といって辿りついたのがチベット仏教のお坊さんの世界でした。ですから、僕は仏教徒ではありますけれども、仏教学者ではありませ...
(河合)「『仏教とは何か』言うたら、どういうふうにしゃべるんですか」というところから始めますか。(中沢)仏教はまず「宗教ではない宗教」と言えるんじゃないですか。少なくとも僕はそんなふうに理解して、仏教に関心を持ち続けてき...
自分の心理療法の経験について外国で講義をしたり、講演をしたりするときに、それが仏教によって支えられていることを、だんだんと意識するようになった。しかし、私は仏教を専門に勉強したのでもないし、偉いお坊さんについて修行したの...
(河合)見ないタイプの人でしょうね。あの人はもう現実を細かく細かく……。それが夢だったわけですね。だから、それでやっていたわけです。結局、あるといったって、ないのと同じでしょ。だから、夢でやろうが現実でやろうが同じじゃな...
(中沢)熊楠の夢というのは、たとえば漱石の夢なんかよりずっとダイナミックですよね。漱石の夢の鬱屈の仕方とは、ぜんぜん違います。(河合)もっとストレートにピタッと出てくるんですね。柳田國男という人は、そういうところがなかっ...